第14号 MBAに学ぶ(前編)
異文化コミュニケーション
入学前、4ヶ月間のフランス語特訓コースをくぐり抜け、無事入学を果たした私を待っていたのは、さらに強烈な異文化体験だった。
INSEADのウリはインターナショナルな人材の輩出。
インターナショナル、はグローバル、とは違う。世界統一などはなく、各国や各人の違いがあってそれを尊重し合いながらちゃんとお付き合いをすること、それがインターナショナル。
というわけで、授業のレポート提出単位である「グループ」は、最も人的衝突が起こりやすいように国籍や職歴がバラバラに組み合わされている。
私は決してステレオタイプな見方をする人間ではない。人は個々人大きく異なるし、それは当たり前のことだ。
でも、このグループワークで私は思い知ることになる。「やっぱ、お国によって違いは大きいわ」。
ドイツ人はまじめに時間通り来て、私(日本人)と一緒に最後までやる。細かい分析作業もいやと言わない。
イタリア人は3時間遅れで顔を出して、でも、もの凄く独創的な良いアイデアを出したりする。もちろんtoo late。今さらそんなの入れたら全体の構成が破綻する。即却下。
でも、彼はCiao~と明るく去っていく。
イギリス人、ケンブリッジ出、シティ勤めのバンカー(大男、髪薄い)は、全部のレポートを最後に清書してくれる。彼曰く「英語に書きかえる」だ。
彼はそれをアメリカ人相手にもやっていた。もちろんアメリカ人は絶句したが、「いや、遠慮しなくて良いから」と。
フランス人は、怖い。ある時、彼に頼んだ分析がイマイチだったので採用せず、没にしてレポート出したらそれから6ヶ月間、口をきいてくれなかった・・・。誇り高い人々だ。
ある時、イギリス人とアメリカ人が突然喧嘩になった。というよりイギリス人の女性が、アメリカ人に対して怒り出したのだ。
「なぜそんな失礼なことを言うのか」「そんな侮辱を受ける覚えはない」と。
アメリカ人男性はただオロオロ。
そこで私の友人が登場。彼は母ドイツ人、父スリランカ人、南米で生まれ育って北米で教育を受け、ヨーロッパで働き、日本にも6ヶ月いて「ビールくださーい」と言えるイギリス国籍のコスモポリタンだ。
彼曰く「『英語』のズレだから気にしなさんな」
アメリカ人のopenでfrankでbrokenな英語は、イギリス人にとって無礼で破廉恥で無教養な言い様と映る。
アメリカ人の「あらこれ分からないの。じゃあ教えてあげるよ」がイギリス人には「信じられない、バカじゃないの。しょうがねぇな、ちゃんと聞けよ」とかに聞こえるわけだ。
米語と英語、同じと思ってはいけません。
Global vs. International
文化の差、常識の差、言葉の差。無用に怒らせちゃいけないが、こっちが怒る必要もない。皆、こうなのだ。いろんな国でいろんな親に育てられいろんな経験をしているのだ。
イタリア人だと、INSEADの卒業式とかに当然のように親御さんが見えられる。29才の息子のために、55才のお母さんがチーズを抱えて来たりするのだ。全く恥ずかしいことでなく、両方がそれを誇りに思っている。
日本人は「すぐ群れる」と批判されるのを怖がって、陰でこそこそ集まったりする。
でもスペイン人もイタリア人も平気で群れる。卒業前には揃いのフォーマルウェアを着て、INSEAD中で記念撮影をしていた。これをもとに一生の繋がりを育んでいくのだろう。
流石、マフィアの国とも思うが、ヒトの目を気にしすぎる日本人ってなんなんだろう、とも思う。
子どもの名前の話を皆でしていたとき、海外の人にも馴染みやすい名前にすべきかどうかで議論になった。
皆、異口同音「日本人なら日本人らしい名前を付けなさい。聞いただけで日本人と分かる名前を。発音が、し易かろうがし難かろうが。それがidentityの基」と。
こうした「国」を支えにした強い自信こそが、実は「個」の強さを生むのだろう。
今の日本や日本人にはそれが欠けている。昔の戦争を正当化する必要など全くないが、今の日本や歴史や文化にもっともっと自信を持って良い。そう感じさせる人々が、INSEADには一杯いた。
MBAで学べるもの。それは人により色々だろう。それがアメリカであれ欧州であれアジア、そして日本であれ、ダイジなことはただ一つ。
普段得られない人や事物との関わりを深く持つことだ。そこから一生の宝がきっと得られるだろう。
初出:CAREERINQ. 2006/03/01