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第13号 失敗に学ぶ(後編)

悲しき跳び箱

前回は、私の(最初の)大失敗プロジェクト経験について、そしてそこからの「学び」について書いた。

失敗、つまりうまく行かないからこそ、必死に色々なアプローチを試す。故に第1の学びはアプローチや手法の「巾」だ。成功プロジェクトでは定義により1つしか学べない。

もう1つは「早めにちょっとずつやる」ことの大切さだ。3ステップくらいで進めれば、過去の自分を否定しつつ、考えを高めることが出来る。

それにより、3つめの学び、「睡眠」にも繋がる。脳内の海馬がちゃんと「短期記憶の整理」と「レミネセンス(追憶)による再構成」作業に勤しめるように、1日6時間は必ず眠ることだ。


さて、今回もまた、失敗談だ。まずは体操の話から。

皆さんには、ある時突然それまで得意と思っていたことが出来なくなった経験はないだろうか。私は、ある。「台上腕立て前方転回」がそうだ。

高校の体育の授業、跳び箱のときのことだ。クラスは最初から「できる組」と「できない組」に分けられ、先生は「できない組」に集中。できる組の我々は完全放置状態。何度かの体育の授業をただ跳び箱で遊んで過ごした。最後は究極技として、最高の8段まで積んで、踏み板を台から1.5メートル離しての、台上腕立て前方転回、だった。これは楽しかった。

そして体育の実技試験の当日、私は突然「それ」が出来なくなった。究極技の話ではない。台上腕立て前方転回そのものが、だ。

その日の事前練習は2回。たった4段の跳び箱なのに、まるでタイミングがつかめず、無様に背中から落ちた。自分でも訳が分からないが、すぐには「修正」しようもなく、実技試験は見事に失敗した。「できない組」以下という、無惨さだ。

なぜその時、すぐ修正が効かなかったのか。それは(1)「最初から出来た」から、出来ないという状態を経験したことがない、(2)そこから徐々に「出来るためのコツ」を積み上げたことがない、だから(3)出来なくなってもどこが悪いか原因が全く分からない。

要は「己を全く知らなかったから」だ。

あるゲーム機メーカーでの失敗

29才、MBA留学帰りの私の復帰第一戦が、某ゲーム機メーカーでのものだった。プロジェクト自体はうまく行ったが、私自身の評価は惨憺たるもの。

「お前『も』一年遊んで呆けたな」と当時の上司に言われた(彼『も』MBA出)のを覚えている。


私の担当テーマが難しかったのは事実。「100万本ソフトの作り方」だ。音楽CDもそうだが伊達や酔狂で100万本以上売れるテレビゲームソフトは作れない。ではどうすればいいのか。その答えを出さなくてはいけなかった。

最終的には「目利きによる早期絞り込み」みたいな答えを出して、その為のステップやら具体的な仕組みの提案をしたが、「大ヒット商品を作る!」という壮大なテーマにしては、とってもイマイチな答えだった。

なにが悪かったのだろうか。


商品知識はかなりあった方だし、テーマもクライアントも好きだったし、体力もモチベーションも(いつも通り)あった。

インタビューをし、数字を分析し、資料を作って議論を重ね、提言を出していく。いつも通りだ。でも結果はとてもつまらない。

もちろんゲームソフトはかなりの「水もの」で、売れる売れないの差が事前に読み切れるような商品ではない。でもそれはアパレルでも食品・飲料でも同じこと。

差があったとすると、当時、まだ産業的に成熟しておらず、技術もどんどん進化するから過去の類似経験が少なく、かつ役に立ちづらいこと。それと生産コストが低く(1枚あたり100円くらい)、固定費である開発費(1ソフトあたり数千万円から数億円)が中心、しかも開発費は上昇の一途、つまり事業リスクがとても大きいこと・・・

だから、なんなんだろう。

どう考えたら「ブレークスルー」が出るのだろう。


今思い返しても歯がゆく苦しい時間が過ぎていった。結局、私の膨大な試行錯誤もむなしく、そのプロジェクトは終了した。

プロジェクト全体としては及第だったが、私自身の出来としては35点。ズバリ赤点だ。流石に「能力不足からの退社」をまじめに考えた。

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