第4号 歴史が教える「事を成す力」(後編)
「出雲大社は神様の牢獄」
『神々の流竄(るざん)』で、彼は言う。
出雲大社は、出雲の神をただ祀るための神社ではない。大和(やまと)から追放した神を、監禁・幽閉するための牢獄なのだ、と。
確かに出雲大社の造りは極めて特殊である。よく知られているのはその高さ。今でも24mあるが、古代には倍の48mあったことが最近の調査で立証されている。世界最大の木造建築、東大寺の大仏殿並みの高さだ。
形はかなり不安定なもので、24mの階段状の台の上に24mの本殿を置くものだ。更に最古の時代では高さが96mあったとの伝もある。
それよりも異様なのは本殿の「間取り」だ。
本殿の中を拝むことは一般に出来ないので、直接は確かめにくいが、基本的に田の字の造りになっている。
普通、寺社仏閣の本殿・本堂の造りは、真ん中に、正面を向いて神・仏像が安置される。当然、正面の柱の数は偶数だ。奇数だと神様の真っ正面に柱が立ってしまう。
それに対し、出雲大社 本殿は正面に3本の柱が立ち、かつ、神座は右奥に左向きに設置されている。出雲大社に参内する我々は、海の向こうを見つめる、柱の向こうの神様の横顔に、手を合わせているわけだ。
これほど異様な造りは何のためだったのか。「理由」が、あるはずだ。
梅原氏は文献を読み直し、史実を集め、地形を調べ、建物を分析する。そういう総体から建立者たちの「意思」を読み取ろうとする。
行き着いた答えが
「出雲系の神(と言われている神々)はもともと大和の出」
「大和では昔、各々の神々を信奉する2派の間での権力闘争が起きた」
「これに敗れて1派は出雲に流刑となった」
「出雲大社はその神々の監獄であり、造りも神を逃がさぬ為のもの」
というものだ。
彼は、こういった推論に当たって、決して通説や、官のお墨付きに惑わされない。
例えばそれまでの古代史学者の論拠の最大のものであった「日本書史」こそは彼にとって「権力者の意思の元に改竄(かいざん)・修正されたもの」であった。
「イエスは投票により神となった」
こういった視点は、ある意味『ダ・ヴィンチ・コード』でも同じだ。著者のダン・ブラウンは主人公に人類最強の書「聖書」について語らせる。
「聖書は人の手によるものだということだ。神ではなくてね。雲の上から魔法のごとく落ちてきたわけではない」
「新約聖書を編纂するにあたって、八十を超える福音書が検討されたのだが、採用されたのは(中略)マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各伝だけだった」
「今日の形に聖書をまとめたのは、異教徒のローマ皇帝であったコンスタンティヌス帝だ」「コンスタンティヌスは資金を提供して新たな聖書を編纂するように命じ、イエスの人間らしい側面を描いた福音書を削除させ、神として描いた福音書を潤色させた」
更に著者は「神の子イエス」そのものも、人によって創られたものなのだと主人公に語らせる。
「“神の子”というイエスの地位は、ニケーア公会議で正式に提案され、投票で決まったものだ」
元々は、神がいて、その伝道者たるイエスがいた。
しかしそれではイエスの立場が弱い、ということで「イエス=神」と正式に決めたのだ。それも会議での投票結果によって。
著者は、イエスの宗教家としての力や価値を軽んじてはいない。ただ、ちゃんと疑いを持てと言うことだ。
常識は必ずしも正しくない。いや、世の常識こそは権力者によって「作られたもの」かもしれないのだ。