第4号 歴史が教える「事を成す力」(後編)
「法隆寺とは怨霊を鎮めるための寺」
高校の頃、衝撃を受けた歴史書がある。梅原(うめはら)猛(たけし)氏の『隠された十字架』だ。
梅原考古学とも称される新しい日本古代史研究の金字塔の一つだろう。1972年に書かれたこの書は世に大きなインパクトをもたらした。
法隆寺が聖徳太子創建による寺社であることはよく知られている。今でも最古の木造建築物として、年間70万人の観光客(うち8割は修学旅行生?)を惹きつけ、夢(ゆめ)殿(どの)(聖徳太子を祀った八角形の建物)を初めとした多くの国宝を擁している。
では聖徳太子一族自体の流転についてはどの程度知られているだろうか。
太子は時の英雄であり悲劇の人でもあった。次期天皇候補の最右翼でありながら、生涯を皇子として過ごし、その息子、山背大兄皇子の代で一族虐殺の目に遭う。陰の主謀者は藤原氏、舞台は法隆寺だ。
その後、藤原氏を度重なる「不運」「不幸」が襲う。これらを太子の怨霊のせいと感じた藤原氏が、その魂を鎮めるために焼失した法隆寺を再建し、寄進を続けたのだという。
ただの寺社仏閣好きの高校生として、まず私がまず驚いたのは「建立の理由」というものについての梅原氏の拘りだ。
寺の由来にはだいたい「○○氏が、△△を祈願して建立」とか書いてある。しかし、考えてみればそんな単純な話であるわけがない。現在のお金にして数百億円を費やす大投資である。それをおいそれと行うはずがない。
もの凄い「理由」があるはずだ。それはいったい何なのか。
そして、もう一つの驚き。
それは古代人の「闇」や「怨霊」に対する恐怖心の強さだ。
皆さんは「真の闇」を経験されたことはあるだろうか。目を慣らしても、幾ら眼を見開いても、眼前の掌すら見えない闇の中で、何時間かを過ごしたことがあるだろうか。これは本当に怖い。
照明の不十分な古代においてこういった闇は、身近なものであった。すぐそこに、全てを呑み込む恐怖があったのだ。
怨霊もしかり。人が病で急に死ぬ、海辺や山で行方不明になる。そこになにか理由がないものか。そういう「明確な理由」の一つが怨霊だったのだろう。
人は怨霊の存在を信じ、それが生き死にの理由と思い、それが鎮まることを、非常に強く願った。
そういった古代人の気持ちになったとき初めて、この大投資の「理由」が分かる。
太子は政権抗争のまっただ中にいた権力者であり、感情を持つ人であった。藤原氏はその祟りをおそれ、それを鎮めるのに必死だったのだ。
梅原氏は結局「後世に作られたイメージでの聖徳太子(聖人君主)」でなく「その時代に生きた厩戸皇子」を「その時代の視点」で見つめよと言っているのだ。