第10号 旅に学ぶ-日本(寺社仏閣編)(後編)
遠くを見つめること:東大寺 戒壇院(かいだんいん) 四天王像
今回の本論である、四天王像の話に移ろう。
東大寺と言えば大仏さま(盧舎那仏(るしゃなぶつ))。でもそれだけじゃない。この東大寺という大伽藍(だいがらん)は凄い。
入り口である南大門には左右に、運慶・快慶・湛慶(たんけい)(運慶の長男)らによる巨大な仁王さま。大仏殿の右手にはお水取りで有名な二月堂。近くの法華堂には三目八臂(さんもくはっぴ)の不空羂索(ふくうけんさく)観音像に月光(がっこう)菩薩像。奥には宮内庁直轄の正倉院。まさに国宝のオンパレードだ。
そして大仏殿裏から左側へ数分歩いて下ると、戒壇院 戒壇堂だ。
ここはメインコースから離れているのでいつも静か。この戒壇堂の中にそれは存在する。
戒壇院 四天王 広目天(こうもくてん)立像。
四天王とは仏の住む須彌山(しゅみせん)の四方を守る神様である。東を持国天、南を増長天、北を多聞天(=毘沙門天(びしゃもんてん))、そして西を広目天が守護する。
広目天の梵名ヴィルーパークシャとは、「通常でない眼を有する者」という意味であり、額に第三の眼を持つヒンズー教の主神シヴァも同じ名で呼ばれる。
戒壇院の広目天は邪鬼の上にしっかり静かに立ち、左手に巻物を、右手に筆を持っている。そして眼を細め、眉を寄せ、遙かなる彼方をひたと見つめている。
その視線の厳しさと視点の遠さは例えようもない。一体、何億光年の彼方を見ているのだろう。一体、何を見、書き留めようとしているのだろうか。
私がその姿を最初に見たのは、カメラマン 土門拳氏の写真集でだった。衝撃だった。
これまで感じたことのない力を、一枚の仏像の写真から感じた。土門拳とはなんたる写真家なのか。自分がその仏像を直に見たとき、彼が描ききった本質を自分も感じることが出来るのだろうか。不安に感じるほどだった。
でもそれは杞憂(きゆう)だった。
広目天像は静かにそこにあり、静かに遠くを見つめていた。
優美な戦闘服に身を包んだその神将の視線はあくまで遠く、あらゆる衆生(しゅじょう)のものたちの何千何万年にわたる争いを、ただ慈悲を持って見つめ続け、書き留め続けているように思えた。
「私は見ているよ。どの一つの生も死も、見逃さず。そして書き留めることで、それに証しと意味とを与えよう」
全てを見守り続けることの苦しみや悲しみは如何ほどのものであろうか。しかしそれを圧倒的な雅量(がりょう)で包容し、優雅に邪鬼を踏みしめ、遠くに視線を向けたまま巻物に筆を走らせる。
色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)
かの広目天のように、数億光年の彼方から、自分の行いを見つめてみよう。回りの全てのものも含めて。上司も部下も同僚も、会社も競合他社も、家族も友人も隣人も。みんなまとめて遙か遠くの高い場所から眺めてみよう。
ヒトの細かい悩みなど、その彼方から見たとき、如何ほどのものであろうか。しかし同時に、どの一つとして、無意味なものは、無い。
色即是空、空即是色。
すべての存在には一切これと言う実体が無い。執着するべからず。しかしながら、実態が無いながらもそれぞれの存在には意味があり、光り輝いている。存在(命)はただそれだけで尊いのだ。
これは決して宗教としての仏教の勧めではない。ヒトの生きる智慧(ちえ)と哲学としての言葉だ。自ら吟味し、考えて欲しい。
どう生き、どう死ぬべきか。決められるのは自分自身だけである。
旅リスト(四国編)
- 高松 栗林(りつりん)公園(広大な園には数々の名所。借景の紫雲山が美しい。夏は5時半開園、早朝散歩に最高)
- 四万十川(しまんとがわ)(日本最大の清流。水底には鮎がキラキラ。欄干のない沈下橋はスリル満点)
- 松山 道後温泉本館(坊ちゃん湯、あります。朝6時の一番湯争いに加わってみます?コワいですよ)
- 高知 桂浜(坂本竜馬の銅像が太平洋を望む。言わずと知れた竜馬ファンの聖地)
- 香川 琴平町 金刀比羅宮(奥社までは1368段。金毘羅は梵語でワニのことであり海上の守護神。故に絵馬殿には「海上安全、大漁満足」の絵馬が一杯)
初出:CAREERINQ. 2005/11/01