第2号 SFが教えるヒトの本質(後編)
私がこれまでに読んだ数百冊のSFのなかでのベストは、夢枕獏の「上弦の月を喰べる獅子」だ。そのテーマは将にヒトの本質的問いと言える。それは「ヒトは幸せになれるのか」だ。
そこでは3つの物語が並行して進んでいく。海から山へと登りながら魚から真人へと自ら変容する存在の謎に満ちた旅、若き日の宮沢賢治の苦悩、そして禅問答。
「良い問いは答えを含んでいる」と物語は教えてくれる。正しく問う力こそが大切なのだと。
このSFをとても私の筆力では紹介し得ない。それはつまり、この本質的問いと答えを、私は私のものにしていないと言うことなのだろう。
SFの最後に光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を紹介しよう。登場人物(?)はゴータマ・シッダールタ(仏陀の若い頃の名前)や阿修羅、キリスト、帝釈天などだ。舞台は過去から未来の数百億年にわたるこの宇宙全体だ。
シッダールタは問う。「なぜ、神は滅びと、そしてその後の救済を預言する」「全能と言いながら、なぜ滅びの前に救わないのか」と。確かに、多くの宗教はこの世の滅びを預言している。仏教では、56億7千万年後が滅びの時だ。その時、弥勒(みろく)菩薩(今は如来(にょらい)になるべく兜卒天(とそつてん)で修行中)が如来(仏)となって現れ、人々を救うと説く。キリスト教も、全ての魂は、最後の審判で裁かれ神による千年王国が始まる、つまり、今の世は滅ぶのだと言う。
神というものはかくも冷たい。
光瀬龍は我々に、あるSF的答えを用意はしているが、物語の価値はその答え自体にではなく(もちろん十分面白いが)、こういった根源的な問いとそれを問い続ける姿勢(物語の主人公達の挑戦と苦悩)にこそある。神すらを問う、それを哲学と普通は言うのだろうが、その意味ではよいSFはよい哲学の書と言えるだろう。
SFと同じく、様々な科学書(正確には科学啓蒙書)から学べるインサイトも多い。その一つを紹介しよう。
「大絶滅 Extinction」は異色の古生物学者 D. M. ラウプによって書かれた、地球生物 大絶滅の歴史だ。現在、地球生物学上5つの大絶滅が知られている。
・オルドビス紀末 (4.4億年前)の大絶滅
・デボン紀末(3.6億年前)の大絶滅
・ペルム紀末 (2.5億年)の大絶滅
・三畳紀末(2.1億年前)の大絶滅
・白亜紀末(6500万年前)の大絶滅
最新の白亜紀末ものが、いわゆる恐竜の絶滅と同じものだが、この時よりももっと深刻な絶滅を生物は繰り返してきている。デボン紀末のものでは生物種の9割以上が絶滅した。個体レベルで言えば全生命体の99%以上が滅んだという徹底的な絶滅だ。この地球に歴史上存在した生物種の殆ど全て(99.99%以上)は既に絶滅してしまっているのだ。統計的に見れば、生物種の本質は「絶滅」とも言える。
書中でラウプが示す、真理がある。
もし、あなたがカジノでコイントスゲームをやったら、どちらが勝つだろうか? 表裏の確率は完全に50対50。この条件で、果たして親が勝つか、子(あなた)が勝つか。
これは次回への宿題とする。トンチでも何でもなく、明確な理由があり、勝敗がある。そしてそれは生物という存在の本質でもある。