第9号 旅に学ぶ-日本(寺社仏閣編)(前編)
1,000年を生きること
これまでも、法隆寺や出雲大社を紹介してきた。
聖徳太子一族虐殺に対する鎮魂の寺 法隆寺、大和の神との戦いに敗れた神々の流刑地 出雲大社。
寺社仏閣は深い深い意味と歴史を秘めたものであった。
同時に、これらは素晴らしい日本芸術の粋でもある。 その建築美、また仏像をはじめとした彫像や装飾達の美は、人の心を強く揺さぶる。
1,000年の時(とき)が峻別したものの力を、存分に理解し、味わおう。
中学時代からお寺や神社、仏像が好きで、祖父母の家のある大阪に近かった京都・奈良を中心に色々なところを訪ねた。その中でも特に「力」のあった幾つかを、今回は紹介しよう。
その前に、その建築物を支える「道具」のお話を。
「道具」の力
日本の建築様式は15世紀 室町時代を境に大きく変容する。力強い重厚さから繊細な様式美へと。
その繊細さの極致が桂離宮に代表される書院造りだ。
この大きな変化を後押ししたのは、実は中世における、建築資源の枯渇と技術的進歩なのだ。
例えば法隆寺で使われる部材は皆、太くて厚い。
大きな扉の厚みは5cm以上もあり、一枚で数トンともなる。
表面はヤリカンナ(穂先が曲がった槍のような形の道具)で少しずつ削り取るように加工してある。それらが建物自体の重厚さを生んでいるわけだが、これは同時に、とてつもない資源と労力の無駄とも言える。
では何故そんな部材を使っていたのか。それは製材技術の未熟さ故と言える。
当時はまだ大きなノコギリが無く、大きな板状のものを作るには「割って削る」しかなかったのだ。それでは薄い板はとても作れない。
大ノコギリという道具が15世紀初頭に使われて初めて、大きな薄い板、が作れるようになった。
当時既に、大きくて丈夫で、しかもきれいに割りやすい木材(要は樹齢1,000年超のヒノキ)資源をあらかた使い果たしていたために、この新技術は一気に採用され広まった。
薄い板に仕上げて組み合わせた方が、扉を作るにせよ何にせよ、圧倒的に省資源である。
また更には表面を仕上げるための平鉋(かんな)が登場し、素材(特に木目)の美しさ(を見せる技術)を追究する方向が加速する。
そしてそれらが遂には桂の離宮へと繋がる。
道具の進化が建築や資源、そして美意識の在り方をも変えたのだ。
人の力を感じること:奈良 薬師寺
さて本題だ。
とてつもなく歴史のある建築を見よう。昔ながらの営みを今も続ける場所に行ってみよう。その時間の重みにと共に、何を感じられるだろう。
薬師寺東塔は、730年(天平(てんぴょう)2年)の創建以後、数々の火災や戦火を逃れ、1,300年の永きを全うしてきた薬師寺唯一の建築だ。
この33.6mの巨大かつ優美な三重塔のてっぺんを飾るのが、飛天(ひてん)をあしらった「水煙(すいえん)」。
フェノロサをして「凍れる音楽」と言わしめた至高の芸術品だ。
しかしこの塔の本質は、その下、約7mのところにある。
仏塔とは、そもそも何なのだろうか。金堂は本尊(仏像)をお祀(まつ)りするところ、講堂は(本来は)仏法を説くところ、山門は人を迎え送り出すところ。では塔は。
仏塔の起源は、古代インドにおいて仏陀の遺骨(仏舎利(ぶっしゃり))を納めた「ストゥーパ」にある。
その漢字表記が「卒塔婆(そとば)」、その省略形が「塔」。つまり、仏塔とはお釈迦様のお墓なのだ。そしてその一番大事な仏舎利は楼閣(ろうかく)の上、「相輪(そうりん)」部分の根本にある「伏鉢(ふくばち)」にある。
故に塔の楼閣部分の内部を見ても、人が寛(くつろ)げるスペースなど欠片(かけら)もない。塔とは仏舎利をなるべく天に近く、高いところにお祀りするための、純粋なる構築物なのだ。
それだけのために、仏舎利を高く掲げるためだけのために、これほどの美しさが天平の昔に形作られた。
そして東塔は爾来(じらい)1,300年の間、その任をじっと果たし続けてきたのだ。
大学2年の時、これを見て、感じたものはズバリ「人の意思の力」だ。
誰が一体、自分が死んだ1,000年後のことを考えられるだろう。
30年で1世代として、自分の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の孫の子ども、あたりの話だ。
でも薬師寺東塔は、そう造ってある。1,000年、いや2,000年保つように造られている。
釘一本からしてそうだ。日本刀のように折り返しては叩き、何千枚もの層になっている。故に錆びても腐らない、すぐには朽ちない。
しかも、今も美しい。
どれ程の強烈な意思がこれを成し遂げたのだろうか。ただただ驚嘆するのみである。