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第46号 発見物語(2)発見は対立から

発見は発展的対立から

益川氏は言う。

「自分だけでは6元(ろくげん)モデルに辿り着けなかった」「小林さんに痛烈に否定され続けたから、4元モデルを捨てられた」

「クォークは4つだという呪縛から逃れられたのは小林さんのお蔭だ」「それが小林さんの最大のコントリビューション(貢献)」


72年9月に学会誌に投稿された「小林・益川理論」は、翌73年には日本の英文学術誌に掲載・発表された。

その翌年には4番目のチャームクォークが、4年後には5番目(第三世代!)のボトムクォークが見つかった。最後6番目のトップクォークが発見されたのは22年後の95年だった。

最終的に小林・益川理論の正しさが検証されたのは、2001年のこと。彼らの(理論的)予言は、30年弱を経てその正しさを示したのだ。(決して、ノーベル賞が示したわけではない)


その大発見の根源は、信ずる(だけど性格は全く違う)仲間による客観的評価であり発展的「対立」であった。


ビジネスでも同じ。

仲間同士での強烈な対立的議論からこそ、大きな飛躍が生まれる。

シマノを発展させた国際電話での大ゲンカ

兄弟で役割を分けながらも、大事に際しては常に議論し、シマノを世界一の自転車部品メーカーに導いた、島野3兄弟(尚三・敬三・喜三氏)。

ビジネス的に見れば、シマノの今日の地位は、米国でマウンテンバイク(MTB)による「オフロード市場」を創造したことによる。


オフロードという新しい自転車の遊び方が、カリフォルニアで生まれた頃、多くの自転車部品メーカーが、それに注目した。

しかし、その遊び方が要求する性能(耐久性など)はあまりに高く、誰にも実現できなかった。開発側から見て、それほど難しいものだった。

当時米国駐在だった喜三氏は、兄弟に対して勇んで説いた。

「絶対これは面白い」


MTB開発を説くに対して、技術担当の次兄 敬三氏は反論する。

「そんなこと簡単に言うな」

「これをやるとなったら、いま予定している開発計画は2年くらい中断して、技術陣をすべて集中せないかん」

「失敗したら次に出す製品が間に合わん。倒産に近いことになるかもしれん」


国際電話での激論4時間、ついに兄弟は合意に達する。MTBを開発しようと。

1981年のことだった。

敬三氏はすぐに新技術のための技術者を配置し準備を整えた。そして翌年、MTB専用コンポーネント「デオーレXT」が投入され、米国で爆発的なヒットとなる。

すぐにその波は世界を覆い、MTBという新しい自転車による、オフロードという新しい楽しみ方が拡がった。


ユーザーの現場を見て、面白さを説いた喜三氏、それに開発の現場からの見方をぶつけた敬三氏。そして3人での激論。

そこから、画期的な商品が生まれ、新しい市場が創造された。

参考

  • 「シマノ 世界を制した自転車パーツ」光文社、「私の履歴書」日本経済新聞社

初出:CAREERINQ. 2008/11/17

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