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第3号 歴史が教える「事を成す力」(前編)

わらって死ねるための「ビジョン」

大学浪人時代にたまたま読んだ「竜馬がゆく」以来、司馬遼太郎さんのファンである。暇があったせいか、当時、数十冊を一度に読んだ。

彼の描く「幕末」は非常に魅力的かつ不思議な世界だ。人口は3000万人余、平均寿命は30数才。多くの若者が動乱に巻き込まれ、その志や義の下に行動し、20数才で死んでゆく。桜田門の外で、長州の山奥で、池田屋の床上で。


その中でも坂本龍馬は特異な光を放っている。土佐藩を脱藩し、主君を持たず、部下を持たず、一人、時代を変える人物として活躍した。既存の組織や枠組みの中でなく、その外で働ける、しかも新しい枠組みを作り出せる力を持った、希有(けう)な存在であったといえよう。

その一例が彼の作った日本初の株式会社(異説もあり)『亀山(かめやま)社中(しゃちゅう)(後に海援隊)』だ。貧乏藩だった福井藩等から10万両を出資させ、自前の汽船を調達し、社員に労働に応じた給料を払い、犬猿の仲だった薩摩と長州を結んで交易をなさしめた。

更には西郷と勝海舟を結び、大政奉還、つまり江戸から明治への大きな無血革命を演出した。所謂、「五箇条の御誓文」は、龍馬が一人、海援隊の汽船の中で練った「船中八策」が基である。


これらは一つ一つが偉業ではあるが、なぜ福井藩主 松平春嶽(しゅんがく)は超ハイリスクと分かっていながら(実際、貸し倒れたが)龍馬に大枚をはたいたのか、なぜ西郷は、勝海舟は、彼に耳を貸したのか、なぜ多くの仲間の志士たちが唯々諾々と死地に赴いたのか、それこそが彼の持つ「ビジョン」の力だったのだろう。


渡航経験の無かった彼は、主に書に学び、欧米の「カンパニー」「ネイション(統一国家)」「入札(選挙)による君主指名」を理解していた。それらをベースに彼は、次の日本がどういう形であるべきかを明確に描き、語っていった。


龍馬が、福井藩士 三岡八郎(後の由利公正、新政府の財政・金融政策を担当)と久し振りに再会した折に叫んだ言葉があるという。


「みな共に、きょうから日本人じゃ」


この言葉の衝撃が、分かるだろうか。そしてそれを気概と希望と明快さをもって語れる人間の力や如何に、と思う。

「この世に生を得るは、事を成すにあり」

人間どうせは死ぬ。死生のことを考えず事業のみを考え、たまたまその途中で死がやってくれば事業推進の姿勢のままで死ぬ、というのが龍馬の持論であったという。

面白いのは、彼がそういった文言を手帳に書きとめ、自戒の言葉としていたことだ。


新撰組や見廻り組が彼をつけ狙っていた時期、彼の周りには常に「死」があった。それでも彼は夜でなく日中往来を、事業に向かって足早に歩く。そのとき瞬間も死を思わない。「そのように自分を躾けている」と彼は常々言っていたという。

「死」を忘れるほどの集中力。

龍馬にとってすら、それは努力の要ることだったのだ。彼はそれを理解し、自らにそれを常に突きつけていたのだ。

これらは幕末という特殊な社会環境下に成り立った、特殊な精神状態なのであろうか。おそらくそうではない。大小強弱の差があるだけで基本的には、いつどんな状況下でも同じである。

事を成すには強い魂魄(こんぱく)が必要であり、強いビジョンが必要なのだ。

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